4月 6, 2025 • インドネシア • by Erika Okada

インドネシアで仕事をする前に学ぶべき初心者向け日本とインドネシアの歴史

インドネシアで仕事をする前に学ぶべき初心者向け日本とインドネシアの歴史

インドネシアに進出する日本企業が年々増える中で、ビジネス成功の鍵を握るのが「相手国の歴史と文化の理解」です。特にインドネシアは、長年の植民地支配と独立戦争、そして日本による占領という複雑な歴史を経てきた国です。本記事では、インドネシアのオランダ統治時代から第二次世界大戦中の日本占領、そして戦後の両国関係まで、インドネシアと日本の歴史を初心者向けにわかりやすく解説します。両国の関係の原点を知ることで、現地パートナーとの信頼構築や文化理解に役立つ情報をお届けします。

 

 

インドネシアとオランダの植民地関係の概略

インドネシアとオランダの植民地関係の概略

VOCによる初期支配とオランダ本国の直接統治

インドネシアは長らくオランダの植民地として支配されてきました。一般に「オランダの支配は350年続いた」と言われることがありますが、正確にはオランダ政府による直接統治が始まったのは19世紀に入ってからです。

それ以前の17~18世紀は、オランダ東インド会社(VOC)という民間の貿易会社が拠点を築き交易を独占していました。VOCは1602年に設立され、現地で独自に軍隊を持つことまで許されていたため、事実上地域の支配者としてふるまいました。しかし腐敗や財政難によりVOCは1799年に解散し、その後オランダ本国による正式な植民地統治(オランダ領東インド)が確立します。

強制栽培制度と住民への影響

こうした植民地支配の中で、インドネシアの人々は長期間にわたり過酷な搾取に苦しめられました。特に有名なのが19世紀に導入された強制栽培制度(Cultuurstelsel, クルトゥール・ステルセル)です。

これは1830年代、当時のオランダ総督ファン・デン・ボスによって始められた政策で、インドネシアの農民に現金作物(コーヒー、サトウキビ、藍など)の栽培を義務付けたものです。農民は自分たちの食料を作る土地や時間を奪われ、収穫物の大半を安く買い上げられました。その結果、現地の人々の生活は困窮し、大飢饉も発生しています。

この強制栽培制度はインドネシア人に大きな苦しみを与え、本国オランダの良心的な人々からも批判を受けた末、1870年代までに廃止されました。

武力による拡大と全土支配の完了

植民地時代には他にも、現地の王国を武力で征服する戦争が各地で繰り広げられました。19世紀にはジャワ島でディポネゴロの乱(1825~1830年)などの反乱が起き、スマトラ西部ではパドリ戦争(1821~1837年)、20世紀初頭までアチェ戦争(1873~1907年)が続きました。

オランダはこれら各地の抵抗を鎮圧し、20世紀初頭にはようやく現在のインドネシア全土をほぼ支配下に収めます(例えばアチェを完全併合したのは1912年のことです)。つまりオランダによる実質的な全土支配が完了したのは20世紀に入ってからでした。

こうした経緯から、インドネシアにおけるオランダの直接統治の期間は実質的には約142年間(1800~1942年)とされています。それでも、数世紀にわたる欧州勢力の影響は政治・経済・社会のあらゆる面に及び、インドネシアの人々の歴史観に深い刻印を残しました。

植民地支配から独立までの主な出来事(年表)

  • 1596年:オランダ人コルネリス・デ・ハウトマンが初めてジャワ島バンテンに到達。以後、欧州と香辛料産地ヌサンタラ(インドネシア群島)との交易が本格化。
  • 1602年:オランダ東インド会社(VOC)設立。バタヴィア(現ジャカルタ)を拠点に交易と支配を拡大。
  • 1799年:VOCが解散。負債と腐敗のため。以後、オランダ本国が植民地経営を直接引き継ぐ。
  • 1830年代:ジャワ島で強制栽培制度(プランテーション作物の強制栽培)開始。先住民の経済に深刻な打撃。
  • 19世紀後半:各地で反植民地戦争(ジャワ戦争、パドリ戦争、アチェ戦争など)。20世紀初めまでにオランダが全土の支配を固める。
  • 1942年:第二次世界大戦中、日本軍が侵攻し、オランダ軍はジャワ島カリジャティで無条件降伏。オランダの植民地支配が崩壊。

 

 

第二次世界大戦中の日本によるインドネシアの占領とその影響

第二次世界大戦中の日本によるインドネシアの占領とその影響

資源の収奪と軍政統治

1942年にオランダから解放されたインドネシアでしたが、それは同時に新たな支配者である日本軍の占領の始まりでもありました。日本の占領統治(1942~1945年)は約3年半と短期間でしたが、インドネシア社会に与えた影響は非常に大きなものがありました。

日本軍は「アジア解放」を掲げて進駐したものの、その実態は資源獲得と軍事戦略上の目的に基づく厳しい占領統治でした。日本はインドネシアから石油やゴム、米など戦争遂行に必要な物資を収奪し、自国の利益に供しました。また軍政によって人々の生活に細かく干渉し、統制を強めていきます。

同化政策と強制労働

占領下では、人々は日本への服従を日常生活の中で強いられました。例えば公の場では日本の国家「君が代」を歌わせ、インドネシアの象徴であった赤白旗の掲揚は禁止して日の丸を掲げさせるなど、文化的な同化政策も行われました。

さらに、日本軍政の末期には状況が悪化します。日本は戦争遂行のためインドネシアの人々を大規模に動員しました。その結果、多数のインドネシア人男性が強制労働(ロムシャ)に駆り出され、過酷な環境下でインフラ建設や軍需作業に従事させられました。

十分な食料も与えられず重労働に従事したロムシャの中には、餓死者や病死者も続出しました。また若い女性たちの中には日本軍の慰安所に連行され、性奴隷(いわゆる従軍慰安婦、ジャグン・イアンフ)として酷使される犠牲者も出ました。

独立への種をまいた日本の支配

一方で、日本の占領統治には後のインドネシア独立につながるいくつかの側面もありました。日本は戦況が悪化するとインドネシア人の協力を得るために、現地の有力者や民族運動家を積極的に登用しました。

例えば、後にインドネシア独立の父となるスカルノやハッタら民族主義指導者を表舞台に引き入れ、宣伝や統治に協力させたのです。オランダ時代には要職に就くことを許されなかったインドネシア人が行政に参加し、統治の経験を積む機会が生まれました。

特筆すべきは、日本が現地で組織した軍事訓練組織の存在です。日本軍はインドネシア人青年を補助兵士として訓練するために「義勇軍」(郷土防衛義勇軍:PETAなど)や、イスラム青年を集めた部隊(ヒズブラなど)を結成しました。

日本の意図は戦力補充でしたが、この軍事訓練がインドネシア人に近代的な軍事知識や組織運用をもたらし、後の独立戦争で大きな力となったのです。

インドネシア独立のきっかけとなった日本の敗戦

1945年8月、日本が第二次世界大戦で敗北すると、インドネシアの独立への機運は一気に高まりました。日本は戦局打開のため同年8月にインドネシア独立支持を表明していましたが、実際には8月15日の日本降伏に伴い統治機構は崩壊しました。

その直後、インドネシア人指導者たちは1945年8月17日に独自に独立を宣言します。スカルノとハッタによる独立宣言は、当時の日本海軍武官・前田精少将の邸宅で行われました。前田少将は日本敗戦後もインドネシア側に協力し、独立準備に便宜を図った人物として知られています。

 

 

なぜインドネシア人は侵略国の日本に親日的感情?

なぜインドネシア人は侵略国の日本に親日的感情?

戦後の和解と友情の背景

インドネシアが独立を達成した後、旧宗主国オランダとの間では独立戦争が勃発しました(1945~1949年)。一方で、日本は敗戦国としてインドネシアから撤退しましたが、その後のインドネシアと日本の関係は急速に修復・発展していくことになります。

戦争賠償と国交樹立への道

戦後しばらく両国間の正式な国交は断絶していました。しかし1950年代半ばになると、インドネシア政府と日本政府は「過去を水に流し、未来志向の友好関係を築こう」という考えで一致します。インドネシア側には独立を守り経済復興を進める上で日本の協力が有益だとの判断があり、日本側も東南アジアとの経済関係を強めたい思惑がありました。

まず行われたのが戦後賠償(いわゆる戦争賠償・賠償協定)の締結です。インドネシアは戦勝国ではありませんでしたが、連合国の主導によりサンフランシスコ平和条約(1951年)に基づき賠償交渉の場が設けられました。こうして1958年に東京で調印された日インドネシア平和条約および賠償協定により、日本はインドネシアに対し巨額の賠償支払いを約束します。

その内容は、現金・財貨での賠償2億2,308万ドル(20年かけて分割払い)と、インドネシアが日本に負っていた商取引債務1億1,700万ドルの放棄、さらに別途経済協力借款4億ドルの供与というものでした。1958年1月20日にジャカルタで行われた調印式により、両国は正式に戦争状態の終結と国交樹立に合意したのです。

賠償資金による国家建設支援

この賠償によって日本から提供された資金・物資は、インドネシアの経済復興に大いに役立ちました。例えば、ジャカルタの独立記念塔(モナス)やゲロラ・ブン・カルノ競技場、ホテル・インドネシア、スラバヤのアムペル橋、国営放送TVRI、サリナ百貨店といった国家的インフラ・施設の建設が日本の賠償資金で次々と実現しました。

また農業・工業分野でも、賠償資金はコメの増産計画や繊維・製紙工場の建設、国産船舶の整備などに投じられています。

インドネシア政府は「賠償と経済協力の成果はできるだけ全国民に行き渡る形で有効活用する」との方針を掲げ、これらプロジェクトを通じて日本からの支援を国づくりに役立てました。結果的に「日本の賠償はインドネシアの発展に大きく貢献した」と評価され、かつての加害者である日本に対するインドネシア国民の印象も次第に好転していきます。

経済協力と投資の拡大

1958年の国交樹立以降、日本とインドネシアは経済・文化の幅広い分野で密接な協力関係を築きました。1960年代以降、日本企業はインドネシアへの投資を拡大し、石油開発や自動車産業、電機産業など多くの分野で合弁事業や技術協力が進みます。

日本政府も円借款や技術援助などを通じてインドネシアの経済開発を支援し、長年にわたり日本はインドネシア最大の援助国・投資国となってきました。

例えば1970年代のジャカルタ都市高速道路建設や発電所建設、近年でもジャカルタ都市高速鉄道(MRT)敷設など、日本のODA(政府開発援助)や企業投資によるプロジェクトが数多く存在します。こうした経済面での貢献はインドネシア国民から高く評価され、日本への信頼感醸成につながりました。

文化・人的交流による親日感情の醸成

文化・人的交流の面でも、両国は距離を縮めてきました。日本の大衆文化(アニメ、音楽、ファッション)はインドネシアの若者に人気があり、逆にインドネシアから日本への留学生や研修生も増加しています。

また、日本語を学ぶインドネシア人は現在約70万人に上り世界有数です。インドネシア各地では毎年「ジャパンフェスティバル」のような文化交流イベントが開催され、日本食や伝統芸能も親しまれています。

政治的にも、インドネシアは東南アジアの中で比較的対日感情が良好な国として知られます。その象徴的なデータとして、2011年のBBC世論調査ではインドネシア人の85%が「日本に良い印象を持っている」と回答し、調査対象国中トップクラスの親日ぶりを示しました。

このように一般国民レベルでの相互理解と友好感情が深まったことが、現在の両国関係の盤石さを支える土台となっています。

戦略的パートナーシップの深化

現在、日本とインドネシアは政治・経済・文化のあらゆる分野で戦略的パートナーシップを結んでいます。例えば直近の貿易額を見ると、2022年の二国間貿易総額は約347億9千万ドル(約5,248兆ルピア)に達し、前年より33%も増加しました。

インドネシアにとって日本は中国に次ぐ第2位の貿易相手国であり、特に日本への天然資源輸出超過によって2022年はインドネシア側の貿易黒字が63億ドルにも上りました。

インフラ開発や防災協力、人的交流プログラムなども数多く実施されています。2023年には外交関係樹立65周年を迎え、「インドネシアと日本は常に『一つの心』で協調していこう」というメッセージが発信されました。

このように、過去に辛い歴史を持ちながらも真摯に和解と協力を積み重ねてきた結果、今日ではインドネシアにおいて日本は最も信頼できる友好国の一つとなっているのです。

 

 

まとめ

インドネシアと日本の関係は、かつての侵略と支配という厳しい歴史を経ながらも、戦後の賠償や経済協力、文化交流を通じて、信頼と友情に満ちた関係へと大きく進化してきました。オランダによる植民地支配の影響、日本による占領の正負両面、そして戦後の賠償と復興支援は、今日のインドネシアと日本の協力関係を語るうえで不可欠な要素です。

現在では、政治・経済・文化の多方面でパートナーシップを築き、インドネシアは日本に対して極めて好意的な国のひとつとなっています。この歴史的背景を理解することは、単なる教養にとどまらず、インドネシアでのビジネスや人間関係構築においても大きな武器となるでしょう。

 

 

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本記事で使用した単語の解説

VOC(オランダ東インド会社)
1602年に設立された、オランダ政府から貿易独占権を与えられた民間企業。インドネシアを中心に貿易や領土支配を行い、軍隊を持つなど国家のような機能を果たしていた。

強制栽培制度(Cultuurstelsel)
19世紀にオランダが導入した制度。現地農民に対しコーヒーや砂糖などの換金作物を栽培することを義務づけたもので、農民の生活を大きく圧迫した。

ロムシャ
日本の占領期において強制的に徴用されたインドネシア人労働者のこと。インフラ建設や軍需工場で過酷な労働を強いられた。

PETA(郷土防衛義勇軍)
日本占領期に日本軍がインドネシア人青年を軍事訓練するために組織した部隊。戦後、独立戦争での戦力として重要な役割を果たした。

賠償協定
1958年に結ばれた日本とインドネシア間の協定で、日本が戦後賠償としてインドネシアに経済支援を行うことを定めたもの。

 

 

よくある質問(FAQ)

Q1: なぜインドネシア人は日本に対して親しみを持っているのですか?
A1: 日本による占領期には多くの苦難があったものの、戦後の賠償や経済協力により、インドネシアの発展に日本が大きく貢献したという評価が広まっています。また、日本文化への好意や教育支援、企業活動を通じて信頼関係が強化されてきたことも背景にあります。

Q2: インドネシアの植民地時代は何年から何年までですか?
A2: オランダによる支配は16世紀末に始まり、実質的な直接統治は1800年から1942年まで続きました。その後、日本が約3年半インドネシアを占領し、1945年に独立が宣言されました。

Q3: 日本の占領がインドネシア独立に与えた影響は?
A3: 日本はインドネシア人に行政や軍事の実務を経験させ、スカルノやハッタといった民族運動家を登用しました。さらに軍事訓練を受けたインドネシア青年が独立戦争の中核を担うなど、間接的に独立への下地を築きました。

Q4: 現在の日本とインドネシアの経済関係はどうなっていますか?
A4:
日本はインドネシアの主要な投資国・貿易相手国のひとつです。インフラやエネルギー、製造業など幅広い分野で協力が進んでおり、両国は戦略的パートナーとして強固な関係を築いています。

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